「ショスタコーヴィッチの生きた時代」

ロマン派音楽研究会ROMUVE会員

太田高等学校 世界史教諭 宮川淳吾

 

 優れた芸術作品は、時代や国家、民族などを越える普遍性を有しています。しかし、ショスタコーヴィッチの創作活動は、ソヴィエト社会主義共和国連邦-長いので以降はソ連と省略します-の歴史と不可分であり、それが故にソ連国内だけでなく、世界での評価までもが、生前だけでなく死後も二転三転した極めて稀な芸術家なのです。

 これからお聴きいただくピアノ五重奏曲作曲の時期までのショスタコーヴィッチとソ連の歴史の関係について、簡単に説明させていただきます。

 ショスタコーヴィッチが、現代風に言えば大学の卒業作品となる交響曲第1番を初演したのが20歳、1926年のことでした。レニングラードでの初演は大成功し、トスカニーニやブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーなど、西側の指揮者が次々と採り上げ、“現代のモーツァルト”“ソ連が生んだ最初の天才”などと絶賛されました。確かに、大学の卒業作品と聞いてイメージする習作的な作品と感じさせない、すでにある程度完成されたショスタコーヴィチワールドを感じさせる素晴らしい作品です。あまり知られていないようですが、翌1927年には、第1回ショパン・コンクールにソ連代表として参加しました。盲腸の痛みで本領を発揮できず、しかしそれでも自信を持っていたようですが、入賞できませんでした。もしここで好成績を取っていたら、大作曲家ショスタコーヴィッチは存在しなかったかもしれません。

 

 さて、ショスタコーヴィッチが天才作曲家として名を挙げ始めた頃、ソ連は一人の人物が権力を掌握し始めていました。ジョージア(グルジア)出身のヨシフ・スターリンです。スターリンは本名ではなく、その行動力を高く評価したレーニンが付けたあだ名で、“鋼鉄の男”を意味します。1924年レーニン死去を受け、世界革命論を採るトロツキーと一国社会主義論を採るスターリンが後継者を巡って争いましたが、1929年までにスターリンは権力を確立します。

 

 権力を掌握したスターリンは、1929年に第1次五カ年計画を開始、大規模な工業化が推進され、失業者が激減しました。この第1次五カ年計画が実施されていた期間、世界はアメリカの恐慌に端を発する世界恐慌に苦しんでいました。失業や不況に苦しむ資本主義諸国の人々は、暗澹たる自国の状況と比較し、羨望のまなざしでソ連を眺めていました。

 

 しかし、これらの工業化は、農村を犠牲にして行われたものでした。工業化推進のため必要な外貨を獲得するため、ソ連は穀物を輸出しましたが、世界恐慌により穀物価格は大幅に下落、予定していた外貨を獲得するために予定以上の穀物を輸出するしかありません。そのため、農村から穀物の強制徴発が行われ、農村を大いに苦しめました。それに加えて1931年と1932年は天候不順で収穫量が激減したにも関わらず調達量の引き下げが行われず、その結果100~500万人の餓死者が出たと言われています。

こうした中、スターリンの責任問題が浮上してきました。これに対するスターリンの解答が「大粛清」です。粛清は当然普通名詞ですが、「大粛清」とはスターリンが1930年代に行った凄まじい粛清を指す固有名詞となります。

(解説用資料の2ページ目をご覧ください。)

 

タイトルの字が間違っていますが、「大粛清」では、スターリン反対派が多数政権から追われ、秘密警察に逮捕されて裁判なしに殺害されたり、シベリアの強制収容所に追放処分にされました。1936年~38年の間に政治的理由で逮捕された者134万人、そのうち68万人強が処刑されました。

また、粛清の対象はソ連共産党幹部にとどまらず、一般党員・官僚・軍人・知識人・芸術家から一般の市民にまで及び、ピークだった1937年~38年の2年間だけでも犠牲者は数百万人にのぼるとされます。

 

 

 

知名度の高さは粛清を避けるためには効力を発揮しません。例えば、50年周期の景気循環を唱えた「コンドラチェフの波」で有名な経済学者コンドラチェフや、“赤軍の至宝”“赤いナポレオン”と称されたトゥハチェフスキー元帥も粛清されています。

 

 また、1936年に始まったスペイン内戦では、「資本家や地主、カトリック教会に長年搾取され続けてきたスペインの労働者や農民を守れ!!」というスターリンの命令で人民戦線政府を支援するためにスペインに赴いた多くのソ連の兵士達が帰国後処刑されています。「労働者の楽園」なはずのソ連人民よりも豊かな生活を送るスペインの庶民を見てしまった、というのが処刑の理由です。

(解説用資料の3ページをご覧ください。)

 

こうした粛清の嵐は、ショスタコーヴィッチにも降りかかってきました。音楽の歴史において政治が芸術に介入した最悪の事例として有名な『プラウダ批判』です。

粛清のピークでもある1936年に初演されたショスタコーヴィッチの2つの舞台作品、オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が、ソ連共産党機関紙『プラウダ』で「音楽の代わりに荒唐無稽」、バレエ『明るい小川』が「バレエの偽善」と批判されたのです。

当時、ソ連では、ソ連芸術全般に関わる基本方針として「社会主義リアリズム」と呼ばれる概念が採用されていました。社会主義リアリズムにおいては、「内容において社会主義的で、形式において民族主義的」であることが求められましたが、抽象性の高い芸術である音楽で「内容において社会主義的で、形式において民族主義的」であることとはどういうことなのでしょうか?

『明るい小川』は観たことありませんが、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は2009年に新国立劇場の上演を観ることが出来ました。不倫殺人をテーマとしたストーリーが不道徳であり、賄賂まみれの警察権力を描いた場面など、確かに権力者が好まない作品なのかなとは思いましたが、そもそもオペラとは不道徳な芸術ジャンルですし、この作品が「内容において社会主義的で、形式において民族主義的」でないのか、と問われるとよくわかりませんでした。

 

結局のところ、スターリンが気に入るかどうかが判断基準なのでしょう。上演中にスターリンが欠伸したり、途中で席を立つようなことがあれば、取り巻き達が忖度し、「形式主義」「モダニズム」「人民の敵」として攻撃することになるのでしょう。

 

 生命の危機に立たされたショスタコーヴィッチは、いわゆる現代音楽と呼ばれる、西ヨーロッパの先進的な芸術の影響が強い交響曲第4番の初演を中止としました。3楽章形式でマーラーを連想させる巨大な作品、どう考えても音楽への興味の薄い独裁者や党幹部に受け入れられないと判断したのでしょう。

 

 こうした状況下、1937年に初演されたのが、言わずと知れたショスタコーヴィッチの代表作である交響曲第5番です。この作品は大成功を収め、ショスタコーヴィッチは完全に復権します。確かに交響曲第4番と比べると音楽がわかりやすく、弱音で終わる4番とは違い「苦悩から闘争を経て勝利の歓喜へ」といういかにも大衆受けしそうな展開になっています。しかし、この作品が本当に国家や独裁者が要求する「内容において社会主義的で、形式において民族主義的」に沿った、「ソヴィエト社会の建設を積極的に主題として採り上げ、その未来を楽天的に描写した壮大で記念碑的な」作品なのでしょうか?

 

 音楽家としての良心と、生命の危機から脱するための妥協、この2つの相反する精神のせめぎ合い、皆様はいかが感じるでしょうか?6月に群馬交響楽団が定期演奏会で採り上げる予定ですので、是非聴いていただければと思います。

 

 これからお聴きいただくピアノ五重奏曲ト短調作品57は、名誉回復したショスタコーヴィッチによって1940年に作曲されました。同年に行われた初演は大成功で、鳴り止まぬ拍手に答えて何と全楽章がアンコールされたそうです。社会主義リアリズムに基づく創作的模範とされ、その証拠に1941年スターリン賞を受賞しました。

確かに、この作品は瞑想的とも言える深い内容を持ち、重厚さと軽妙さ、悲劇性と抒情性など、高度のバランスを保つ見事な傑作で、聴き手に深い感銘を与えます。こうしたことから体制側から高い評価を受けたわけですが、作品を聴いていただければ分かるように、この作品は「社会主義的」でも、「形式において民族主義的」ではないと考えられます。初演当時、作品を聴いたある人物が「この五重奏曲は私自身だ。そして多くの人が同じように感じている」と語ったように、むしろ反体制的、つまり、粛清の恐怖と猜疑心に脅える悪夢のような日々を送っていた人々の『真実の声』がこの作品に強く影響を与えていると考える方が、この作品の真の姿を理解するには有効であるように思われるのです。

 

 作品の成り立ちや背景を知ることは、作品の深い理解や作品への愛情を育むためには大変役に立ちます。今日のお話を通じて、ショスタコーヴィッチの苦悩や人々の苦難がこの作品の根幹にあることを理解していただければ幸いです。

 

 ただ、最初にも申しましたが、素晴らしい芸術作品とは普遍的なものです。私のこれまでの話もそうですが、ショスタコーヴィッチはあまりにも政治や国家との関わりが強調されてきました。ソ連解体から約30年、ショスタコーヴィッチを国家と切り離して評価する時代が来ているのかもしれません。とりあえずいったんこれまでの内容は忘れていただき、今から約35分、純粋に音楽としてこの傑作を楽しんでいただければと思います。

 

 ご静聴、ありがとうございました。