KAFFEE PAUSE

フランクの交響曲はフランス的か?


セザール・フランク:交響曲ニ短調

 

 フランク唯一の交響曲は、『ベルリオーズの幻想交響曲と並ぶフランスの音楽史上最高の交響曲』と高く評価されています。このように、《フランスの》という形容詞付きで呼ばれることが多いフランクですが、果たして彼は《フランス的》であったのでしょうか。

 

 実際、彼は少年のころにフランスに移住し、その後フランスに帰化したフランス人だったのですが、血統的には、母親がドイツ人、父親はベルギー人で、フランス人の血は直接には入っていませんし、彼の音楽的興味を見ても、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナーなど、ドイツ人作曲家に偏っていたのです。

 

 この作品が、ウイットに富んだ軽快さと明快さを重んじる当時のフランスの作曲家たちの作品とはひと味もふた味も異なる、みずみずしい感性の中に重厚でしっとりとした味わいを持っているのは、こうした特徴によるのは間違いありません。例えば、この作品のディスクを見ても、マルティノンがフランス国立管弦楽団を振った演奏のように軽快で明朗なラテン的演奏も素敵なのですが、フルトヴェングラーがウィーンフィルを指揮した演奏のように、暗くてうねるようなゲルマン的な演奏も実に様になるのです。

 

 また、彼は、長年パリの教会で主席オルガニストを務めた敬虔なカトリック教徒でした。しかし、同時に、当時、音楽界を席巻していたワーグナーの官能的とも言える音楽を熱心に研究したことも知られています。この作品からは、まさにカトリック教徒だけが書ける《敬虔的な雰囲気》とワグネリアンだけが書ける《官能的な雰囲気》が同時に感じられます。こうした《敬虔》と《官能》が同居する世界というのは、この作品が作曲される直前に初演されたワーグナーの楽劇《パルジファル》からの影響を感じずにはいられません。

 

 こうした相反するものが止揚して一つの世界を形作る、あるいは、相反するものの中庸を行くというのは、ロマン派芸術作品の大きな特徴の一つです。

 

 そもそも《ロマン派》というのは、カントによって「現象」の背後に私たちが決して認識することのできない「物自体」の世界が広がっていることが明らかにされ、こうした「暗い異形の力」としての「物自体」に憧れ、そして表象しようとしたドイツ文芸運動から始まっています。

 概念化することができないものに対する憧憬、これが、ロマン派の音楽の大きな特徴であり、フランクのこの作品にみられる複雑な表情は、こうしたロマン派の理念なくしては生まれえなかったものです。そして、ここにフランクの交響曲こそ比類ないロマン派的な交響曲であると言われる所以があるのです。

 

 さて、作品は、交響曲の伝統的な形式である四楽章制を採らず、緩徐楽章を欠く三楽章制を採っています。

 しかし、第一楽章の序奏部及び再現部に長大なレントが置かれていること、あるいは、アレグレットと表示される第二楽章も全体の印象としては緩徐楽章的であることから、この作品を聴いたときの交響曲としての違和感はそれほどないと言ってよいでしょう。

 しかも、全ての楽章に登場する、俗に《信仰の動機》と呼ばれる印象深い主題によって3つの楽章の間の統一感が図られています(この《信仰の動機》は、第一楽章では129小節目から、演奏開始後、約7分後にフォルテッシモで大きな孤を描きながら登場します)。

 

 長大な第一楽章は、カトリックの大聖堂を仰ぎ見るかのような壮大で重厚な音楽の建造物です。そこでは、宗教的不安や人間的葛藤が激しく描かれますが、それらも高らかに歌われる《信仰の動機》によって止揚されていきます。

 

 続く第二楽章は、彼の有名なヴァイオリンソナタの第三楽章に比されるような抒情的な歌と夢見るような憧れに満ちた楽章です。なお、冒頭の憂愁に満ちたメロディは、交響曲での使用が珍しいイングリッシュホルンによって奏されます。

 

 最後の第三楽章では、一転して、流麗で歓喜に満ちたメロディが繰り返し奏されていきます。しかし、それは、ベートーヴェンが描いたような勝利の凱歌ではなくて、内面からわき出る感謝の歌といった風です。

 途中、憂鬱な第二楽章冒頭のメロディや弦楽器群によってしっとり奏される《信仰の動機》を間に挟みながら、最後は、あくまでも輝かしく、そして晴れやかに全曲を閉じます。