KAFFEE PAUSE

ワーグナー/楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕への前奏曲


■作曲:リヒャルト・ワーグナー 

■台本:リヒャルト・ワーグナー

■言語:ドイツ語

■作曲:1867年(ワーグナー44歳)

■初演:1868年6月21日、ミュンヘン・バイエルン宮廷歌劇場

■指揮:ハンス・フォン・ビューロー

■上演:前奏曲10分、第1幕:80分、第2幕:60分、第3幕:120分

 

■解説

[作曲者について] 

 リヒャルト・ワーグナーは、1813年、ベートーヴェン43歳の年、ドイツのライプツィッヒにおいて、市警察書記の子として生まれました。ロマン派を代表する優れた歌劇、楽劇の作曲家であるにとどまらず、自ら執筆する台本作家で、指揮者、演出家でもあるなど、現代の映画や舞台芸術につながる総合芸術の創立者と言えます。しかも、「ドイツのオペラ」「未来芸術」「オペラとドラマ」「革命と音楽」「音楽におけるユダヤ性」といった数々の論文を発表した思想家として知られています。

 

 日本ワーグナー協会員で、歴史に関する講師を務めていただいた宮川淳吾氏は、ワーグナーが生まれた1813年は、ロシア遠征で敗れたナポレオンが起死回生を賭けイギリスを中心とする連合軍と戦い破れたライプツィッヒの戦いが行われた、ヨーロッパ史における重要なターニングポイントであると指摘しました。自由平等博愛というフランス革命の精神が一転、旧来の体制に後戻りし、世界大戦に突入していくヨーロッパ近代史における重要な転換点に、まさにその場所で生まれたことを抜きにして、彼が実際の革命に参加し、芸術分野においても大きな変革を起こす歴史的役割を演じることを理解することはできないと指摘しています。

 

 父親は、彼が生まれてまもなく亡くなり、母親はすぐにユダヤ人の俳優ガイヤーと再婚します。義父の俳優という仕事柄、日頃から作曲家のウェーバーなどと親しく接することができる環境がワーグナーを優れた舞台人に育てあげたことは想像に難くありません。しかし、そのこと以上に注目すべきは、ワーグナーが、終生、自分がユダヤ人の子ではないのかと不安を感じていたことでしょう。彼の負い目が、パリでの不遇を経て、彼を反ユダヤ主義に駆り立て、畢生の大作《ニーベルングの指環》の中で、英雄ジークフリートの養父ミーメ殺害という恐ろしいシーンを生み出す背景にあると考えられています。

 

 さて、ワーグナーは、現在でも名門オペラハウスとして知られているザクセン(ドレスデン)宮廷歌劇場の指揮者という名誉な地位に就いていたにもかかわらず、生来の劇場改革、社会改革の意識もあり、当時、ドレスデンで起こった革命に参加します。指名手配を受け、国外に逃亡していたところ、彼のオペラに心酔していたバイエルン国王のルートヴィッヒ二世の庇護を受け、バイロイトに自らの作品だけを上演する劇場を建て、現代でも続く音楽祭を開催するなど、まさにオペラの登場人物のようなドラマティックな人生を歩んだ作曲家です。

 

 作品としては、初期の名作、歌劇「タンホイザー」、歌劇「ローエングリン」、機能和声を破壊し、音楽史を変えるきっかけともなった楽劇「トリスタンとイゾルデ」、上演に最低4日間もかかる壮大な「ニーベルングの指環」、そして、最後の楽劇「パルジファル」などの舞台作品を作曲しました。当時のヨーロッパでは、好き嫌いに関わらずワーグナーからの影響を無視して作曲を行うことはできなかったほどであり、他の芸術分野や哲学者、政治家など多くの文化人にも強い影響を与えるなど、ヨーロッパ芸術史上の巨人の一人と評価されています。

 

 当時から、ワグネリアンと呼ばれる熱狂的な信奉者が存在しましたが、同時に敵も多く、特に音楽の都ウィーンは、美学教授で評論家のハンスリックを中心に、絶対音楽による保守的なブラームス派の牙城であったことから、互いに論陣を張り、双方が激しい対立を繰り広げました。ワーグナー派に属したブルックナーがハンスリックから執拗な攻撃を受け、大きな精神的ダメージを受けたことは音楽史上の有名なエピソードです。

 

 また、ワーグナーの音楽を愛し、また、彼の反ユダヤ主義に影響を受けたヒトラーとナチス・ドイツによってドイツ民族の優秀性を示す典型として徹底的に利用された暗い過去があり、現在でもユダヤ人国家イスラエルでは、ワーグナーの演奏は事実上禁止された状態が続いています。

 

[楽劇について]

ワーグナーが作曲家として最も円熟した時期、壮大な愛の悲劇である楽劇「トリスタンとイゾルデ」と対になる喜劇として創られたのが、巨大な楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」です。

中世ニュルンベルクを舞台に、芸術の伝統を守ろうとする手工業者等の組合の親方衆、そして新しい芸術的感性を持った騎士階級出身のワルター、彼の新しい芸術に戸惑いながらも擁護する靴屋の親方ザックス、そして、初老のやもめ男ザックスに心惹かれながらも若いワルターを愛するエヴァの関係を軸に物語は進みます。最後は若いカップルの誕生で終わることから、一見、オペラでよくあるハッピーエンドの恋愛ものかなと思いきや、実はそんな簡単な

話ではありません。この作品には、伝統的な芸術と新しい芸術の対立と和解という哲学的なテーマが作品の縦軸に、横軸には若い恋人の誕生に、身をひく初老の男の諦観があたたかい包容力を持って描かれていることが大きな特徴です。作品中で、ワルターの新しい芸術を非難するベックメッサーは、ユダヤ人であったハンスリックをモデルにしていると言われるなど反ユダヤ主義の影やドイツ芸術礼賛などの要素もあり、一筋縄ではいかない重厚な内容を備えた作品となっています。

 

 [前奏曲について]

有名な前奏曲は、上演時間6時間にも及ぶオペラの最初に演奏されるもので、全曲のダイジェスト版のようになっています。最初に堂々と包容力を持って奏されるテーマが、主人公の靴屋の親方ザックスのテーマです。(譜例1)

 

しばらくすると行進曲風のテーマで親方衆が登場します。(譜例2)

 

すぐに雄大な弦楽器のカンタービレによってドイツ芸術を守るマイスターたちの誇りが高らかに歌われます。(譜例3)

 

次に、ワルターとエヴァの若いカップルの愛がヴァイオリンとヴィオラの絡み合いでたっぷりと描かれます。この部分について、ワーグナーは、「思い切りやさしい表情のなかにも、情熱的で、ほとんどせわしないと言ってもいいような声をひそめてささやかれる愛の告白にも似た雰囲気が醸し出される。」と語っています。(譜例4)

 

一転、雰囲気が変わると、ワルターの恋敵の市役所職員ベックメッサーや親方の弟子たちがワルターの新しい芸術をあざ笑う様子が木管楽器や弦楽器の複雑な動きで表されます。(譜例5)

 

その混乱が最高潮に達したところで、再びザックスのテーマが壮大に登場し、すべての登場人物が和解するかのように、それまでのテーマが同時に進行する有名な部分になだれ込みます。最後には、大きなクライマックスを築き、ドイツ芸術の栄光と親方ザックスを讃えて壮大に終わります。

伝統的な芸術と新しい芸術の融合、そして、階級や人種間の和解など物語の大団円を表現するこの部分は、聴衆だけでなく、演奏者にも圧倒的な高揚感を与えてくれます。ぜひ、どのテーマがどの楽器で演奏されているか、注意深くお聴きください。

 

壮大なオーケストラを駆使し、登場人物たちの感情や誇りを細やかに描いたこの前奏曲、ワーグナーの音楽がいかに多くの人を感動させ、ヨーロッパの芸術史に残る巨人となったのか、彼の天才性がよく分かる作品となっています。

 

2019年11月3日演奏会プログラムノートから